「アンチ・オイディプス」より3 | 宮本浩樹のブログ ― アーカイブ ―

「アンチ・オイディプス」より3

“人間は宇宙のさまざまの機械を担当する永遠の係員なのである。
自然と人間とは、唯一の同じ一つの本質的な実在であり、…

欲望する生産は純粋な多様性なのである。つまり統一体に還元され得ないものを端的に肯定するものなのである。

集団幻想の革命的な極・・・諸々の機構[制度]そのものを可視的なものとして経験する能力の中において現れる。死の欲動を真の機構を創造する力とみなして欲動と社会野を連接させながら、諸々の機構を破壊あるいは改変する能力。

ひとつは、「財貨」の社会的生産がその規則を〈私〉を通じて欲望に押しつける道であり、いまひとつは、諸々の情動の欲望する生産がその規則を機構に押しつける道である。
クロソウスキー

社会野が、もはや利害によってではなく、まさしく欲望によって備給されている限り、この社会野の中に亀裂と分離差別を受け入れさせるならば、無意識的備給は、支配階級への普遍的服従を確実ならしめることができるのだ。

言語作用の最も高度なる能力が発見されたのは、言語作品が、ある使用[用法]に従って何らかの効果を生産する機械とみなされた時である。

社会的生産と欲望する生産(真の欲望)とは一体をなしているが体制を異にし、従って前者は後者に対して本質的な抑制を行使する・・・欲望する生産が、潜在的に社会形態を爆破するものをもっている。

(現代に見られる統合機能の疎外された形態を、われわれはむしろ正気と称しているのだ。)・・・精神の真の正気は、何らかの仕方で、いわゆる正常な自我を解消させることを前提としているのだ・・・。
レイン

芸術機械、分析機械、革命機械が、唯一の同じ欲望する機械を育てる種々の流れの中で、相互に部品となり歯車となってそれだけの数の発火物となるのか、互いに非本質的な外面的な関係に留まるのか。

人間は積極的な忘却の能力によって生物学的な記憶を抑圧して人間となったのであるから、今度は共同の別の記憶を身に付けなくてはならないのだ。・・・それは、種々の記号を身体にじかに刻んで組織化することであり、まさしく残酷の体系である。
ニーチェ

人が強度[内包]的なものから外延的なものへと移行することが本質的なことなのである。神話の助けが不可欠となるのは、ここにおいてである。・・・神話のみが、(生産の体系を含めて)体系の強度の状態を、野生人の思考や行動に対応させてはっきりさせているものであるからである。

欲望する生産から、社会的生産や再生産の中に移行しないものが、抑圧されるのである。抑圧されることになるものは、社会的生産や再生産の中に無秩序と革命を導入すると思われるものである。

表象には二つの次元があり、ひとつは、その表層の組織であり、 〈音声 - 表記 - 眼〉の三つの要素を持っている。今ひとつは、その深層の組織であり〈欲望の表象表現〉―〈抑圧する表象作用〉―〈置き換えられた表象内容〉の三つの決定機関[審級]をもっている。

シニフィアンの帝国主義は〈それは何を意味するのか〉という問いの外にはわれわれを出させはしない。
それは専制君主の恐るべきアルカイズムである。
〈抑圧する表象作用〉としてのシニフィアンと、このシニフィアンが引きだしてくる新しい〈置き換えられた表象内容〉”

えー、(こればっかりだな:汗)
とにかくドルゥーズさんも「革命」を指向していたようです。
明日からやる予定の「構成的権力」に直につながります。
では、また。