「アンチ・オイディプス」より2 | 宮本浩樹のブログ ― アーカイブ ―

「アンチ・オイディプス」より2

“子供の生命をオイディプス・コンプレックスの中に閉じ込め、家庭的諸関係を幼年期における普遍的媒介項とみなすことによって、人は無意識そのものの生産の働きと、直にこの無意識に働きかける集団のメカニズムを見失うことを余儀なくされる。

オイディプス主義 ― 《自然》と《生産》という途方もない工場を内輪の私的な劇場にかえてしまうものであった。

オイディプスは、まさに観念論への転回点なのである。― 欲望する諸機械の放棄。

オイディプス的精神分析に見られるような、無意識の諸総合の不当な使用を告発する。

オイディプスは厳密には決定しえないものなのである。・・・それだけにいたるところに見いだされるものである。この意味では、オイディプスは厳密には何の役にも立たないというのが正しい。
・・・オイディプスは、精神分析が世界の責任を逃れるために手を洗う泉である。・・・潜在的なるもの、反動的あるいは反作用的[反応的]なるもの。

極限を社会体の内部へ移行させること。・・・オイディプスはこの置き換えられた極限である。”

えー、(汗)
よくわかりませんね。

フロイト氏が、「無意識」を扱えるようにし、その事によって「意識」を分析する事が可能になった、その〈問題構成〉によって失われてしまった「可能性」を救い出そうとする試み。であると思います。「アンチ・オイディプス」という著作は。

「近代の終焉」という時代の大きな変化が、これまで有効だった数々の概念(ツール)を無効にしている事は確かですが、「オイディプス・コンプレックス」もその一つだと思います。
神を弾劾する「イオン」のほうが個人的にも好きです。